歴史・文化・伝統を再認識する機会に!

特集・流鏑馬(三嶋大祭りの変更点の横)
三島市最大の催事である三島夏まつりが今年から「三嶋大祭り」に改名し、「歴史・文化・伝統」を重んじた祭りとして生まれ変わります。三嶋大祭りの変更点を紹介するとともに三嶋大祭りの歴史を振り返ります。

三嶋大祭りの変更点

市民から「大社の祭り」と呼ばれているように、「三嶋大社のつけ祭り」という、地域の歴史・文化・伝統と、祭りに対する誇りや郷土愛を表現するべく、今年より三嶋大祭りに改名致しました。三嶋大社は伊豆国一ノ宮であり、三島市だけの夏祭りでなく伊豆一円の大祭であることを近隣市町へ再発信し、近隣市町から多くの人が参加・観覧に訪れる祭りにしていきます。
また、『三島市歴史的風致維持向上計画』(歴史的に価値の高い、地域の文化(建物・風習等)を保存・継承するための計画)が国の認定を得たように、三嶋大祭りは全国クラスの祭りです。伝統や歴史のある「山車・シャギリ」「農兵節」、故事をもとにした「頼朝公旗挙げ行列」に重きを置き、祭りの歴史や背景などストーリー性ある催事を行っていきます。特に頼朝公旗挙げ行列では騎馬を現行の5頭から12頭に増やし、今まで騎馬武者であった俳優や市内高校生4名に加え、三島市長・三島市議会議長・三島商工会議所会頭など市内の名だたる顔ぶれが新たに騎馬武者に扮します。

三嶋大社と祭り

特集・農兵節 特集頼朝① 古くから三嶋大社の祭事は「大社のまつり」 や「お明神さん」などの呼称で親しまれ、地域の年中行事のいくつかが、三嶋大社の祭祀と重ねて行われてきました。例えば、初詣は村の氏神に参拝するだけでなく、三嶋大社に参詣する習慣を持つ人が今でも多くいます。つまり、三嶋大社の祭礼そのものを地域の年中行事とすることは、三島の人々だけでなく、近郷近在の広い地域の人々の共通した考えがあったと思われます。三嶋大祭りも大社の例祭日であり、市民にとっては「大社の夏まつり」 の日です。3日間の祭りの催し物の中には、手筒花火や人長舞(じんちょうのまい)・浦安舞(うらやすのまい) や焼亡の舞(しょうぼうのまい) などの三嶋大社に残る伝統的な芸能や、明治元年に廃絶したものの昭和59 年(1984) に復活した武田流「 流鏑馬( やぶさめ)」 の古式豊かな馬術や「 頼朝公旗挙げ行列」「梯子のり」「農兵節」「大神輿渡御」 と数多くの催しが行われます。また、 三嶋大祭りの大きな特徴である当番町持ち回りの「 山車引き回し」 と、その山車上で囃す「しゃぎり」 と大鳥居玉垣前で行う「子どもしゃぎり」 は観客を魅了しており、市民参加の伝統芸能の披露として意義のあるものとなっています。

シャギリ(三島囃子)とお囃子

特集・三嶋囃子 三島囃子は、戦国時代、小田原北条氏の時代である天文年間( 1532~1554) に、三嶋明神の舞役であった幸若與惣太夫( こうわかよそうだゆう) によって現在に伝わる原型が作られたと言われています。
この三島囃子はしゃぎりとお囃子を総称したものです。しゃぎりは武士の士気高揚や娯楽を目的として、打ち鳴らしたことに始まるとも言われ、テンポの良い曲調です。これに対してお囃子はゆったりとした曲調で優雅さをたたえています。これらは400 有余年の間、楽譜はなく人から人へ伝えられ三嶋大社例大祭とつけ祭りとともに継承されてきました。昭和42年(1967)に、市の無形文化財に指定され、平成3 年(1991) に、県の無形民俗文化財の指定を受けています。

山車の引き回し

特集・山車の引き廻し  江戸時代初めの頃にはすでに行われていたようで、三島の宿中祈祷のため、山車を引き出したという寛文9 年( 1669) の許可証文が残されています。当時は宿中祈祷のためには、川原ヶ谷や柿田など周辺地域の人たちが「 シタカタ」 として山車に乗り、しゃぎりを演奏し、三島宿の青年はその屋台を引いたものと思われます。今ではしゃぎりの演奏を、各町内で受け持つところが大半となっていますが、山車の引き回しは、今でも旧市街地に限られています。
現在では、8 月15 日午後に三嶋大社社頭で神事を行った後、当番町の山車はお祓いを受け、それぞれ、「神楽昇殿」 を奉納演奏します。その後、三島市街の引き回しに向かいますが、山車同士がかち合うと「屋台」 という「けんか囃子」 で勇壮な競り合いとなりました。しかし、これがエスカレートしていったため、今は、互いにかち合わないコースを決めています。夜になると、当番町のすべての山車が社頭に集まり、ここで山車の競り合いを行い祭りは最高潮に達した後、山車は、「鎌倉」 という「戻り囃子」 を演奏しながらそれぞれの町内に引き上げて行きます。

頼朝公旗挙げ行列

源頼朝が伊豆に配流となったのは永暦元年(1160) 13 歳春のことです。前年に平治の乱(1159) に敗れた源氏は頭梁義朝が尾張の国で殺害され、一族は四散し世の中は平氏全盛の時代となりました。頼朝は源氏再興の願いが日に日に強くなり兵士を巧みに結集していました。そして、ついに三嶋大明神に祈願し百日の日参の上、治承4年(1180) 8 月16 日~ 17 日に旗挙げをし、山木判官平兼隆(やまきのほうがんたいらのかねたか) を討ち鎌倉幕府の創草の基を打ち立て天下平定のスタート切りました。
三嶋大祭りではこうした故事を再現し、戦後間もない昭和23 年(1948) から頼朝公旗挙げ行列が行われています。頼朝公旗挙げ行列が始まったころは、頼朝公には当時の三島市長や商工会議所会頭などが扮していました。昭和57 年に初めて俳優の高田浩吉氏を招聘し北条四郎時政を演じて頂き、翌年には政子役を鰐淵晴子氏が務めました。その後しばらくし、平成3年(1991) の西郷輝彦氏から俳優や芸能人が頼朝公を演じています。